自然のもので健康に

わたしたちの歩み

第1章.甘草研究のはじまり

「田村さん、ちょっと待ってください。あれはすごいですよ」

 この一言から、甘草の研究は大きく動き出す事になる。

 北海道S牧場にて、H氏と一通り話し終え、さて帰るかと立ち上がった時に、突然H氏が切り出してきた。

「何?何の事ですか?」

「甘草です。ほら、去年私が購入した、あれです」

 

 言われて思い出した。確かに、H氏には去年会った際に甘草を買ってもらっていた。

「あぁ、あれですか。すごいというのは?」

 

 言いながら、座り直す。私の半身が動かなくなって数年になるが、まだまだ座る作業というのは辛い。それでもH氏の表情からは、座り直して話を聞くだけの価値があるように感じられた。

「お話ししていた通り、あの後風邪引いてばっかりで鼻水流してた、種付けが出来ない雌馬に甘草をやってみたんですよ。そしたら二週間で発情が来ました。その発情でばっちり種が付きましたよ」  淡々と話す。

 

 H氏とは長い付き合いだ。同じ帯広畜産大学を卒業した一年後輩で、余り口数の多い方ではない男だが、実直な男である事は分かっている。私が先輩だからといって、おべんちゃらを使うような男ではない。そんな彼から、そんな経験談を聞く事は初めてで、しかもその中身は想像以上に面白い内容であった。

「付いたんですか。はぁ、そんな事があるんですね」

「はい。本当にどうしようも無い奴だったので、私も驚きました」

このごく短いやり取りがあったのが2006年初夏。長い長い甘草研究の端緒である。


 そもそも私、田村勝男という男はかれこれ30年以上前に会社を興し、一人でこの『田村薬草農場グループ』を切り盛りしてきた。創業以来、実に色々なものを扱ってきたものだ。高麗人参やあまちゃづる、サメの軟骨など、人の健康に関わるようなものがメインであった。

 

 その中でも社名の通り、薬草には特段興味があり、ずっと扱ってきていた。本を読み、育てたり、買い付けをしたり、勉強に勉強を重ねてきた。その関係で、東北大学薬学部とは深く付き合う事となり、もう20年程の付き合いになっている。

 

 その長い付き合いの中で、一人の留学生と出会う事になる。遠い国、モンゴルから日本へ、生薬について学びに来たB君である。彼は大変人懐こい性格であり、いつも田村さん、田村さんと声を掛けてくれた。私自身も、モンゴル人特有の気質である自分勝手さが薄いB君に好感を覚えており、意気投合した。

 

 B君はことある毎に私をモンゴルへ連れ出そうとした。「行きましょうよ、モンゴル。いい場所ですよ」。仕事の事もあり、なかなか返答できずにいたが、ついに私はモンゴルへと遊びに出かける事となった。

 一週間の滞在の中で、彼は実に色々な場所へ連れて行ってくれた。彼の故郷はモンゴルの中でも西の果ての県で、塩分を多量に含んだ湖、オブス湖や、モンゴルの平原など、日本にはない景色の数々を見せてくれた。


 ある朝、モンゴル人が散歩をしようと誘う。ちょっとそこの丘の上まで、などというので、言われるがままについていったのだが、モンゴルの標高は2,000m以上。ただでさえ空気が薄くて体が動かないのだが、丘に見えたそれは、下から上まで標高差100m以上あるような、山であった。木が無く、草だけに覆われた山というのは、比較対象物がなく、すっかり感覚が狂っていたのだ。

 

 私は体力には自信のある方であったが、さすがにこれはしんどかった。その横を悠々と、にやにやと笑いながらモンゴル人が歩いていく。「どうした、こんな『丘』も登れないのか?」。その表情は如実にそう語っていた。ぜえぜえと息を切らす私は、苦笑いをするので精一杯であった。

 

 そんな状況ではあったが、視察を済ませ、さて帰国しようかという時に、一人の男が見送りに来た。私は彼を知っていた。彼の顔を見て、先ほどとは違う意味で苦笑いを浮かべる。彼は笑顔だ。

 

 モンゴルでの日々、毎晩のように歓迎会が開かれた。つまるところ、酒宴である。モンゴル人はひたすら飲む。私は一滴も飲めない下戸であるが、歓迎してくれるものに参加しない訳にもいかない。モンゴル人の特性を静かに眺めていた。

 

 その酒宴の中で、一人のモンゴル人が、B君の通訳を通じて一生懸命私に訴えかけてきたのだ。

「モンゴルには甘草という薬草がある。これを日本で売ってくれないか」

 

 彼はモンゴル国内にて自分の会社を興し、薬草などの売り先を探していたのだ。私が日本人である事、健康にいいものを売っている事を知り、食いついて来たのだ。

 

 とはいえ、私はそれまで甘草というものを扱った事がない。情報も少ないし、扱える自信が無かった。彼に扱うのは無理だと伝えると、それでも食い下がった。何とかして欲しい。

 

 そのモンゴル人の『攻撃』は一晩に止まらなかった。一週間のモンゴル滞在中、三度私の前に現れ、何とかして欲しい、と繰り返し頼んできたのである。

 

 そして今、見送りまで来てくれた。三顧の礼という訳ではないが、そこまでされてしまっては、どうにも何もしないわけには行かなくなってしまった。ついに私は根負けし、分かりました、日本の方で少し考えてみますと答え、サンプルを持って帰国の途に着いたのだった。