研究者、現場、臨床獣医。それから会う人会う人に長曽我部先生のデータを見せ、甘草の有効性を訴えた。そのいずれからも、同様の答えが返ってくる。
「そんな事はあり得ない」
言われる度に何とも悔しい気持ちになる。誠実な人間が出したこのデータが、検証もなくたった一言で否定されてしまう。畜産業界では繁殖障害は大きい問題であり、絶対に甘草はこの問題に役に立つという確信はある。しかし人は信じない。まして、成績が良すぎるのである。人からすれば、『良い部分を抽出してデータを集計したのでは?』と思われるかもしれない。
歯がゆい思いで説明はするものの、『薬草なんて古くさい物は効くはずがない』という凝り固まった概念の前には、為す術もなかった。
焦れながらも、しかしひたすらに出来る事をやるしかないと、自分を奮い立たせ、動かない体に鞭打ってあれこれと模索しながら飛び回っている中、一本の電話が掛かる。
内容は、生薬の専門家であったK先生が亡くなったというものだった。
衝撃だった。甘草を畜産に、という提案を頂いてからもK先生の所には足繁く通わせて頂き、何かと相談に乗って頂いていたのだ。彼も、提案した手前何もしないわけには行かないと思ったのだろう、本当にあれこれと情報を提供してくれたり、助言を頂いていた。
以前からガンを発症し、あちこちに転移しており、決して長い命ではない事は本人からも聞いては居たが、しかし改めて訃報を聞くにつけ、その命が惜しまれる。
何よりも、先生が存命の間に甘草の仕事を完成させる事が出来なかった事が悔しかった。だからといって、歩みを止めてはならない。私はただ、甘草に真摯に向き合い、世の中に普及させるだけだ。それが先生への恩返しというものだろう。
「親父、ちゃんとデータを取ろう」
この頃から、いやもう少し以前から、長男が繰り返し私に言った。
「ちゃんと試験をして、誰が見ても分かるデータを取れば、きっと人は動く」
何を、と思った。長曽我部先生のデータをちゃんと理解すれば、誰だって有効性なんて理解できるはずだ。繁殖以外についても、S先生の免疫のデータがある。十分伝える事が出来るはずだ。
一方で、今持っている良いデータで勝負しても、信じてもらえない現実がある事も認識していた。このままで甘草は売れるようになるだろうか。もしかしたら、息子の言う通りなのかもしれない。
幸い、縁あって酪農学園大学の繁殖を専門とするK先生とコンタクトを取る機会を得ていた。これがチャンスなのかもしれない。
「よし、やろう」
もしきちんとデータが出れば、臨床、研究の二面から説得できるようになる。今までのような説明の煩わしさも減るかもしれない。私は、賭けてみる事にした。
2010年。8月の暑い最中、北海道へ出張し、酪農学園大・K先生に甘草と繁殖障害改善について説明する。
K先生自身、恐らく甘草のデータについて信じる事が出来ない一人であったと思う。懐疑的な意見は大分持っていたようだが、仲介してくれた人の顔を立ててか、試験を行う方向で話を進める事が出来た。最初はこんなものなのかもしれない。研究者にとっては、自分の目で確認していない臨床データをすぐに信じると言う事は難しい事なのだろう。試験が進められるだけ、前進だ。とにかく頑張っていこう。
試験を始められる話、やはり手応えが弱い話を長曽我部先生に伝える。そして、意を決して伝える。
「先生、北海道へ行って直接K先生に会って頂けませんか」
K先生は現場も良く知っている希有な研究者である。業者である私たちが現場の話をするよりも、長曽我部先生に経験を話してもらった方が伝わる事も多いだろう。そう思ったのだ。思ったのだが…
この決断を躊躇ったのには理由がある。この頃、長曽我部先生は体調が思わしくなかったのだ。昨冬の牛舎で治療中、誤って転倒し右腕を骨折、骨は夏には治ったものの夏バテなのか体調不良が続いていた。『生涯現役』を掲げ、90歳になっても獣医をやるんだと息巻いては居たが、近頃は車の運転もままならない程であった。
「あぁ、いいよ」
即答だった。こういう人なのだ。自分の体調不良を押しても私の後押しをしてくれる。
「田村君には甘草の仕事をしてもらわなきゃ困る。その為なら、俺は何でもするよ」
私はこの言葉に痺れた。
同じ8月中に、もう一度K先生の所へ。今度は長曽我部先生を連れて。私は都合がつかず、長男のみを行かせる事になった。
長曽我部先生には、データに付随する、様々な体験を語ってもらった。その人柄に触れれば、データが決していい加減な物ではない事をK先生にも理解してもらえるだろう。事実、K先生の態度はこの時から少し軟化し、甘草について前向きにとらえてもらえるようになったと思う。一歩前進だ。
だが。大きな問題が起こる。